Masuk街中に咲き誇る桜の木を眺めながら美月が弓道場へ着くと、部員が中央で集まり何かを話していた。それも男子と女子両方の部員だ。
(……緊急ミーティング?)
制服のスカートのポケットに入れたスマホを見るも、部からの連絡は入っていなかった。弓道着姿の部員は誰もおらず、みんな制服でいることから今しがた何かが起こったのか、と美月も急いで中央の輪に入った。
すぐに気がついたのは、みんなこれまで見たことがないような深刻な面持ちをしていることだった。大会の前や段級審査のときももちろん不安や緊張でピリッと張り詰めた真剣な雰囲気になることもあるが、ここまで悲壮感が漂うような空気になったことはない。
話をしているのは副部長と男子弓道部の部長と二俣だった。周りの部員がざわざわと話している中、二俣の焦った声に耳を傾ける。
「──つまり、加護さんと森久保さんの2人と連絡が取れないということでいいのかな?」
(加護? 加護先輩のこと? じゃあ、もう1人は森久保……先輩?)
美月は月に一度の合同練習の記憶を思い返していた。森久保がわざわざ自分の横に立ち、弓の持ち方や動作を教えてくれた姿が目に浮かぶ。別け隔てなくよく目を掛けてくれる先輩だと、美月は思っていた。
黒髪ベリーショートの副部長は強くうなずくと身振り手振りでさらに詳しい状況を説明する。
「そうです! 今日、ここへ来たら彩乃と仲良くしている2年生2人から、昨日の夜から連絡がつかないって言われて、私も連絡してみたんですが全然つかまらなくて」
2年生の2人とは、昨日更衣室で加護先輩と話していた2人だろうと、美月は30人ほどの部員から2人の姿を探した。
(いた。でも、顔色がおかしいような……)
ポニーテールで髪の毛をまとめた1人は困ったような顔をして、訴える副部長の顔を見つめていた。しかし、なぜか下を向いているもう1人は長い前髪で表情は読み取れないものの蒼白い顔をしていた。
何か知ってる──そう考えたときに外野から声がして思考が途切れてしまった。
「おっ! 美月ちゃん来たじゃん!」「何? 弓道部、練習やらないの!? 俺ら美月ちゃんの練習見にきたんだけど!」
(あいつら、こんなときまで!!)
さすがに許せないと文句の一つでも言ってやろうと近づこうとしたそのとき、二俣の口からこれまで
聞いたことのない怒声が飛んだ。
「いい加減にしろ! お前ら、もう出てけ!! 二度と来るな!!!」
弓道場の空気が震えた気がした。誰も声を発することができずに急に静まり返る。
場の空気を察したのか、それとも弓道場にいる全員の視線が向けられているのが居心地悪くなったのかはわからないが、美月目当てで集まった男子生徒たちは一言、二言何か喚き散らしながらすぐにその場からいなくなった。
「せ、先生……」
丸刈りの男子弓道部の部長が、普段怒ることのない、怒ったとしても恐怖を感じることのなかった二俣に、恐る恐るといった様子で声をかける。
二俣は眼鏡を上げると、いつもの柔和な笑顔を見せて軽く手を振った。
「ごめん、ごめん。さすがに耐え切れなくて。古塚さんも悪かったね」
「あっ、いえ……」
あまりの衝撃に他の部員と同じように面食らった美月の口からはあまり言葉が出なかった。
「そうだ。古塚さんも何か知ってることがあったら教えてほしい。森久保さんと──」
「加護先輩と連絡が取れないんですよね?」
美月は、瞬きを一つする。二俣の急な大声には驚いたし、昨日、先輩に言われたことが頭を掠めたが、今はそれどころではない。
「私は何も知らないですけど、2人の親御さんには連絡が取れたんですか?」
二俣はまた眼鏡を上げた。
「ああ、そうだった。まず2人の親に確認してみる。たまたま2人とも休みってこともあるからな。悪いが、ちょっと今日は練習を休みにしよう。男子と女子の部長と副部長、それから加護に連絡したという2人以外は、みんな解散だ」
二俣がゆさゆさとお腹を揺らしながら、急いで弓道場を出て行ったあと、一人、また一人と鞄を片手に帰っていく。
美月はタイミングを見計らって、昨日加護と一緒にいた2人の先輩に話しかけた。
「あの、すみません」
2人は何も言わず、怪訝そうな顔で首を傾げた。
(こういうときは単刀直入に聞いた方がいい。……どうせ、嫌われているんだから)
「先輩、何か隠していませんか?」
視線を向けたのは、二俣が怒る前にずっと俯いていた髪色が少し茶色く毛先にウェーブをかけた先輩の方だった。
「な、何? 急に」
少し後ずさったのを美月は見逃さず、さらに言葉を畳み掛ける。
「加護先輩のことです。私、先輩には嫌われていたかもしれないですけど、それとこれとは別です。何か知ってるなら、話した方がいいと思います」
何も答えは返ってこなかった。その代わりに美月はもう一人のポニーテールの先輩から胸を強く押された。
「何? 変なこと言ってんのよ! あんたが、あんたが何かしたんじゃないの!?」
美月は、きっと相手を睨みつけた。
「私は何もしてないし、何も知りません。……でも、勘違いだったらすみません。……失礼します」
いつものように頭を下げると、美月はまだ残っているみんなの好奇の視線のなか足早に弓道場を出ていった。
街中に咲き誇る桜の木を眺めながら美月が弓道場へ着くと、部員が中央で集まり何かを話していた。それも男子と女子両方の部員だ。(……緊急ミーティング?) 制服のスカートのポケットに入れたスマホを見るも、部からの連絡は入っていなかった。弓道着姿の部員は誰もおらず、みんな制服でいることから今しがた何かが起こったのか、と美月も急いで中央の輪に入った。 すぐに気がついたのは、みんなこれまで見たことがないような深刻な面持ちをしていることだった。大会の前や段級審査のときももちろん不安や緊張でピリッと張り詰めた真剣な雰囲気になることもあるが、ここまで悲壮感が漂うような空気になったことはない。 話をしているのは副部長と男子弓道部の部長と二俣だった。周りの部員がざわざわと話している中、二俣の焦った声に耳を傾ける。「──つまり、加護さんと森久保さんの2人と連絡が取れないということでいいのかな?」(加護? 加護先輩のこと? じゃあ、もう1人は森久保……先輩?) 美月は月に一度の合同練習の記憶を思い返していた。森久保がわざわざ自分の横に立ち、弓の持ち方や動作を教えてくれた姿が目に浮かぶ。別け隔てなくよく目を掛けてくれる先輩だと、美月は思っていた。 黒髪ベリーショートの副部長は強くうなずくと身振り手振りでさらに詳しい状況を説明する。「そうです! 今日、ここへ来たら彩乃と仲良くしている2年生2人から、昨日の夜から連絡がつかないって言われて、私も連絡してみたんですが全然つかまらなくて」 2年生の2人とは、昨日更衣室で加護先輩と話していた2人だろうと、美月は30人ほどの部員から2人の姿を探した。(いた。でも、顔色がおかしいような……) ポニーテールで髪の毛をまとめた1人は困ったような顔をして、訴える副部長の顔を見つめていた。しかし、なぜか下を向いているもう1人は長い前髪で表情は読み取れないものの蒼白い顔をしていた。 何か知ってる──そう考えたときに外野から声がして思考が途切れてしまった。「おっ! 美月ちゃん来たじゃん!」「何? 弓道部、練習やらないの!? 俺ら美月ちゃんの練習見にきたんだけど!」(あいつら、こんなときまで!!) さすがに許せないと文句の一つでも言ってやろうと近づこうとしたそのとき、二俣の口からこれまで聞いたことのない怒声が飛んだ。「いい加減にしろ!
長袖の白シャツにボーダー柄の長めのパンツというシンプルなルームウェアを着たまま歯磨きを済ませると、美月は綺麗に整えたキッチンの前に立った。 フライパンに米油を垂らし、火を点ける。十分に温まる間に冷蔵庫からウインナーを取り出すと、包丁で綺麗に切れ目を入れていわゆるタコさんウインナーを作った。 タコさんウインナーは兄、弓弦の子どものときからの好物だ。もう高校3年生にもなると言うのに、食事にウインナーを出すときはこのウインナーを所望し、前に忙しくて時間がないときにただ表面に斜めに切り目を入れただけのウインナーを出せば、「タコの奴じゃねえーのかよ」などと文句を言ってきた。 美月は、「どこのモラハラ夫だよ」と返したが、内心自分とは違い母親に甘やかされて育っているから仕方がない部分もあるかと不思議と納得している自分もいた。 フライパンにウインナーを投入する。続いて、空いたスペースに卵を2つ割り入れて目玉焼きをつくる。炒めている間に、玉子焼き専用の四角いミニフライパンを出して同じように火を点けると、そこに入れるべき卵液を混ぜ始めた。(しょうがない。兄さんは昔からそうだし、お母さんも昔からそうだ) 兄とは対照的に美月は自分でも自覚するほど実に厳しく育てられた。物心ついたときにはすでに自分で身の回りのことは済ませていた記憶がある。小学生に上がる頃には、踏み台を使って料理をしていたし、中学生になるともう家事は全て美月の仕事だった。 美月は長らくそれが当たり前だと思っていたのだが、乃愛と話をしたり、クラスメートの会話に耳を傾けていると、どうも他の家では母親か父親か、どちらにせよ親が家事をすることが当たり前らしい、ということがわかった。 玉子焼きは兄がしょっぱいのが好みだった。甘いのが好きな美月は以前は2回玉子焼きを作っていたのだが、面倒くさくなって今は兄に合わせて卵液に醤油を一回ししている。適度に混ぜ終わったところで、火力を調整したフ
──手を伸ばす。視線の先では母親と兄が手をつないでいて、自分もそこへ加わりたかった。駆けて、走って。どんなに近づこうとしても永遠に届かないそんな気がした。 諦めてうなだれて、地べたに座り込んで横になって。大声で泣く。 慌てて駆けてきた兄は心配そうに手を伸ばしてくれたが、その手をつかむ前に母親がまた兄の手をつないだ。 顔を上げれば母親はどこか何か遠くを見ていた。視線は自分をすり抜けて、ありもしない何かを見ている。 伸ばした手に気がつくことなく、母親は兄を連れて先を行く。もう片方の手は煤《すす》を被ったような真っ黒な手が引っ張っていた。手だけではない気がつけばいつの間にか無数の黒い手が母親の身体を取り囲んでいた。 全身が震える。口が大きく開く、息を吸い、口から──。* 幼い自分の悲鳴が遠くに聞こえた気がして、美月は目を開いた。(……夢……?) スマホのアラームが鳴っていた。少しでも目覚めを良くしようと思って選んだ小鳥の囀りだ。慣れた手付きでアラームを止めると、まだ眠い目を擦った。 指に何かが付着した。(涙……?) 泣いていたことに気がつくと同時に半分まだ夢の中にいた頭がゆっくりと動き始める。 美月の兄、弓弦《ゆずる》は何日か前から母親と一緒に田舎へと帰っていた。理由はわからない。美月の母親は気まぐれで、突然思い立っては有無を言わさず兄と二人でどこかへ行くことが多かった。今回は兄が18歳の誕生日を迎えたその日に、急に田舎に帰ると言い出して身支度を始め、本当に次の日の早朝にはいなくなっていた。 美月は何度か寝返りを打つと、ベッドに潜り込んだままスマホをいじり始めた。寝ている間の通知を確認したあとメッセージアプリを開くと、笑顔の兄のアイコンをタップした。(まだ返事は来てない。既読もついてないし……私が送ったのが3日前だから、兄さんが田舎に帰ったのも3日前か) 額に伸ばした腕を当てる。目を瞑って今見ていた夢の内容を思い出そうとするも、霞《かすみ》のようにほとんど思い出せなかった。 母親から連絡がないのはいつものことだが、兄から3日も連絡がないのはおそらく初めてのことだった。(それに、昨日乃愛に見せられた……なんだっけ? ……「白無垢の恋唄」……あれのせいだ) よくないもの、と直感的に感じてしまったからか妙に頭に引っかかり、昨夜寝る直前も
「あっ、あれ?」 二人して真っ暗闇の空を見上げる。「電気が消えたのか? こんなときに」 老朽化した電灯が消えた。それはよくあることかもしれない。「……ゆ、悠人。ち、違う」「違う? ……えっ、なんで?」 森久保はキョロキョロと周囲を見回す。老朽化した電灯が消えるのはありえる話だが、全ての電灯が同時に消えるのはありえない。 加護はつかまれたままの森久保の手を握った。「なに? どういうこと? 一体何が起こって──」 どこかから足音がした。真暗闇の中に密やかに。ただしはっきりと。普通の足音ではない、と加護は震える耳の奥で感じ取っていた。擦れるような音、地面を擦るような足音が次第次第に近づいてくるような気がする。 震えていた。確かに加護の体は震えていた。 ──ただの足音だ。いくら人気が少ないと言っても全く人が通らないような獣道でもない。普通の公道。駅から住宅街へと繋がるどこの街にもあるような何の変哲もない一本道。 そう意識が働くものの、体は真逆に震えている。初めて弓を射ったときの感覚に似ている気がした。頭では順序通りやればいいとわかっているのに、体が指先がどうしようもなく震えてしまう。 その根源は、恐怖だ。「に、逃げろ! 彩乃!」 森久保の声が弾けた。腕が思い切り引っ張られる。前を向く前に視界の隅に捉えたのは、白い、白い何かだった。 二人は懸命に走る。後ろを振り向くこともせず、立ち止まることもなくひたすらにがむしゃらに足を動かしていた。(おかしい) 暗闇はどこまでも続いている気がした。森久保の肩口から見える先も街灯のあかりはついていない。ここまで真っ暗だとしたら、停電でも起こったと考える方が自然だ、と加護は頭を巡らせた。 だが、それを口に出すことは憚《はばか》れた。わかっている。ただの偶然だ。急に暗闇になったことも、烏《からす》が羽ばたいたことも、不気味な足音も、白い光も全部が偶然か見間違い。その可能性の方が大きい。というよりも、きっとそれが真実のはずだ。 なのに、そうじゃないと体が否定する。森久保の手から離されないようにと全速力で走っているにも関わらず、全く熱くはならず鳥肌が立つほど凍える体が、現実に基づいた事実と真実を否定する。否定というよりも、それはもはや拒絶だった。 初めて見る必死の形相で走る森久保の息が荒くなっている。加護自
確かに目を引く美人だ。スラッと背も高くスタイルもいい。アイドルやモデルと言われても納得してしまうほどの美貌を備えていた。そして、悔しいことに弓の腕前も相当なものだった。 聞けば加護と同じ中学から弓をやっているにも関わらず、その実力の差はもう埋められないほどに開いていた。 これまで平等に注がれていた森久保の視線は、古塚美月一人に注がれるようになった。共同練習のときは顕著で、森久保は古塚美月の指導ばかりをしようとする。 古塚美月に群がる馬鹿な男どもとは違うが、加護にとっては同じことだった。(なのにあの女は、気にも留めない。悠人に見つめられているのに、恥じらいも戸惑いも何もなく平然としている) ──あの女は、悠人から好かれることを当たり前だと思っているんだ。 メッセージアプリを閉じると、次に加護はSNSを開いた。 数日前に上げた自分の投稿を見る。〈永久に先悠人をば待たん暗闇に花の塵ゆく定めとしても〉* 加護と森久保が駅を出たときには辺りはもう夜の闇に包まれていた。 1羽の烏《カラス》が耳障りな声で鳴き、翼を広げてどこかへと飛んでいく。急に目の前を飛び去った烏に加護は声を上げて驚きその場で転んでしまった。「大丈夫!?」「う……うん、大丈夫」 差し出された手をつかむ。がっしりとした、しかし手のひらの温かい感触が伝わり急に恥ずかしくなった。「あっ、ごめん……」 相手も同じだったのか、森久保の声が上擦る。支えられながら立ち上がると、温かい感触が離れていく。
弓道部の部活が終わり、いつものように加護《かご》彩乃《あやの》は仲のいい部員と他愛もない話をしたあと、ファストフードのお店を出た。「お疲れ様でした彩先輩!」「お疲れ様〜」 1年後輩の2年生二人と手を振って別れると、加護は頬を緩めながらそわそわと早足で歩き出す。 時間としては午後5時過ぎ。日はもう傾いてきており、辺りは真っ赤な夕暮れに染まっていた。 後輩たちからだいぶ離れたところで後ろを振り返ると、加護は近くにあった自販機の横に立ち止まり、制服のスカートからスマホを取り出した。 透明感、ガラス感があるオフホワイトのスマホの画面を開き、メッセージアプリを開く。トップに表示されている森《もり》久保《くぼ》悠人《ゆうと》の名前を見るだけで、加護は鼓動が早くなっているのを感じていた。(……本当に、連絡が来るなんて思わなかった……) 森久保悠人は、加護と同じ3年生、そして同じクラスだった。森久保が覚えているかどうかはわからないが、加護と森久保は3年間同じクラスで一緒だった。 柔らかな笑顔に端正な顔立ち、性格もよく優しい。それになにより、森久保は男子弓道部のエースだった。 運動ができる男子高校生は、花形のバスケやサッカー、テニス、野球などを選ぶことが多く、弓道部を選ぶ人は少なかった。加護は中学から続けている流れで弓道部に入部したが、同じ弓道部に森久保が入ることを決めたときは同じクラスから入部者が出たことで素直に嬉しかった。 森久保のフォームは初心者と思えないほど美しく、そして華があった。月に一度ある共同練習でも苦手な子や不得手な子にも丁寧に弓を教えていて、その姿勢と性格から同じ女子部員からも密かに人気があった。 加護が自然と森久保の姿を目で追うようになるまでさほど時間はかからなかった。 何度か告白されたという噂も聞いたことがある。けれど、森久保は誰とも付き合うことはしなかった。一人で優しく誰にでも平等──女子の人気は広がっていく。 どうにかなりたいと思ったわけではない、ただその美しいフォームを遠くで眺めているだけで加護は満たされていた……はずだった。 加護は袴姿の森久保のアイコンをタッチする。画面をスクロールさせて、少ないやり取りの一番上のメッセージを見た。もう何回、何十回と見たメッセージだ。〈急に連絡してごめん、弓袋破けちゃって新しいの買おう